私は元いじめっ子である。
例えるならスネ夫のような立ち位置である。
ジャイアンの陰に隠れ後ろからヤレヤレやっちまえと便乗するタイプ。
集団の中の一人でないと怖くてできない。
直接手を下さないが、同調する。
それでも何故かいじめられる子は私を慕っていた。
記憶が曖昧な部分があるのでなんとも言えないが多分みんなが見てない所で何かしら弁解じみた事をしていたんだと思う。
承認欲求で誰にでもいい顔をするというやつだ。
いじめと言うものの動機のひとつは嫉妬なのではないかと思う。
今思えば、いじめてた子は可愛くて、優しくて、素直でよく笑う。
お母さんも美人で優しい人だった。きっと家族仲のいい家庭だったのだと思う。
最近の、いじめを苦に自殺する子が親に心配かけまいと抱え込んでしまうのは、ある意味家族間に愛情がある証拠なのではないか。
私の家は両親の夫婦仲がギスギスしてて母親は近寄りがたかった。
そう言えばジャイアン役の子も家庭環境が複雑だったと聞いた。
私たちはその鬱憤をいじめで晴らしていたのだ。
幸い私がいじめていた子は不登校にもならず自殺もしなかった。
いじめっ子を養護する気はないけどひとつ、
いじめ問題が起こった時、ただ犯人探しをして罰して終わりでは解決にはならないのはよく言われている。
相手をタヒに追いやるまでとことんやってしまういじめがある。
しかも、人がタヒんでも親も含めて反省しないと言う異常性はどうして生まれるのか。
私はいじめっ子が、親共々、愛情を知らない、もしくははき違えているせいだと思う。
よくある「いじめを無くすには」と言うテーマの報道に、いじめっ子の「動機の裏」についての話もあればいいのにと思う。
でもそんな事をしたら苦情の電話が殺到するだろう。
とりあえず法に訴え条例云々をつくるのは、それが手っ取り早く簡単で、周りの大人が「ほら、私たち問題解決の為に頑張りましたよ!」
と分かりやすく示しさっさと仕事を終わらせる事ができるから。
でもそれは、躾をするのに体に電流を流す様なやり方だ。そのうち電流に慣れ、電極の外し方を覚え、ずるがしこくもっと凶暴化するだけだ。
いじめはなくならない、でも人格形成の過程できちんと愛着が確立される人間が増えればいじめはもっと減るのではなかろうか。
愛情を、「執着」や「依存」など歪んで認知している事に気づいていない人のなんと多いことか。
昨今、学校の「道徳の時間」が削られていると聞いて恐ろしくなった。
一体何のための学校だ。
色々歪んだ私がなんとか生き残れたのは、家庭で学べなかった道徳を、学校の先生や会社の先輩、上司、周りの大人が教えてくれたからだし、いじめられっ子が強く生き抜いてくれたからだ。
でなければ私は今頃とっくに殺人者だ。
私はあの子に謝罪していない。