人がタヒんだあとの扱われ方はなかなか面白い。
まず大抵は通夜を行う。
通夜は好きだ、喪服を着なくていいし、喪服はなんか無理やり暗くしている感があってあまり好きじゃない。
死んだ人と一晩寄り添い時を過ごすなんてとてもロマンチックだ。
来たい人だけが自力で会いに来て、そこにはまだタヒと悲しみしかないから。
それだけ素直に感じて泣いていられる。
まあその辺は子供時分の話だから気楽なものなんだろうけど。
さあその後だ、
私は葬式だの告別式だのが嫌いだ。
故人をダシに故人などどうでもよい人間が集まる作業だから。
まず準備やらなにやらで意気消沈した心身にムチを打たなくてはならない。
呼ぶ坊主の数で揉め、(坊主を何人呼ぼうが人のタヒに関係ない)
葬式費用で揉め、(金ナイなら盛大にやるな)
喪服のデザインで揉め、(喪服着ようが着まいが失礼な奴は失礼)
日取り決めでもめ、(人がたくさん来れば満足か?)
早くも相続で揉め、(こう言うやつほどちゃんと喪服着てる)
20年ぶりに会うあんた誰な親戚と揉め、(なに人かどうかも怪しい)
気づけば慌ただしいまま故人は灰になっている。
葬式告別式に来る人もほんとに来たくて来てる人は何人いるのか。
会社の先輩の、会ったこともない親族の葬式に万単位の香典を持って、忙しい仕事の合間をぬって。
帰り道仕事後のような疲れを感じる。
むしろ行かないほうが快く哀悼の意を伝えられる気がする。
あれを見るたびに馬鹿らしくて故人がかわいそうに見えてしまう。
子供の頃からずっとそんなで、大人になったら自分もこれをやらねばならぬのかと嫌で嫌で仕方がなかった。
なので元々の薄情な性格も相まって、鬱になってからは親戚の葬式すら行かず、他人と葬式の話をするのも嫌になった。
私の親が年老いて、自身の墓を作る話をした時、
この人達は子供が自分の墓に参ってくれると信じているのかと、
チョットしたショックの様な違和感の様な変な感覚になった。
嫌な気持ちだった。
私は子供のままなのだ。
もしくは人でないのだ。
初老という歳になってもまだ大人の事情がわからない。
子供を自分のステイタスを維持するために利用し、ストレスのはけ口にした人間の墓をどんな気持ちで参れと言うのか。
いや、お世話になったから参るけどもさ。多分それは私にとって「使役」になるだろう。
と、
相手に言ったところで被害者ズラしてさめざめ泣かれるか、無視を決めこまれるだけなので言わないが。
いつからタヒにゆく人間が自身のタヒ後の処遇を決めるようになったのか。
大昔はタヒんだ仲間を思い、残ったものがそれぞれの思いで弔ったはず。
いつからそれを強要するようになった?
何故?
そうか、時代が変わったんだ。
それこそ揉めないように今のうちから決めといてくれるのか?
ん?
なら共同墓地で良くない?
寂しいんだろうな。
みんなが自分だけの墓に参ってくれることを想像することで自己の消失への恐怖心を和らげ、自己同一性を保ちたいんだ。
そして葬式に人が来れば来るほど残された側の人間の自尊心も保たれる。
な?
タヒんだ奴なんてどうでもいいのよ。
そして
墓という形が残る事によって、
呪いがあの人達がタヒんだ後にも続いてくのだという発見に絶望した。
それを何とかしてドラマの様に美談に変えなくては。
お墓の前で泣かなくては。
そうしないと「私の墓」に誰も参ってくれない。(作らんけど)
墓とはなんだ。
例えば、
戦争でゴミのようにどこでタヒんだかも名前もわからないような人達の墓を一つ一つ個別に作り弔ったら、少しは無念さが和らぐんだろうか。