私はこの壊れた頭を何とかするため投薬を選んだ。
というか選択の余地も選択する余裕もなかったんだけど。
それから何十年経ち、薬の扱いも慣れ、認知療法を受け入れることを学び実行し、ようやくここまで。
自分で自分を教育し直したということだと思う。
子供の頃にこびりついた歪みを一つ一つ消していく。
もちろん死ぬまでに全ては消えない。
でもまあまあ向きは変わっている。
この何十年という期間、自分を半分眠らせることで抑えなければならないものを抑えてきたみたい。
その反面抑えたくないものも抑えられてしまう。
例えばラリってる間に手足を鎖でつないで行動を制御されながら改めて道徳の授業を受け続けるみたいな。
悔しさはある、
行動を制限されたことで時間を浪費したと感じる時もある。
過眠にも悩まされ一日何時間寝てたろう。
副作用で太り、
意欲も下がった。
“ 好きであるはずなのに ” それをしようとしたり、していても集中力がなく長続きしない。
したいのに出来ない、
しなければならないのに出来ない。
したいことができない、したいことがない、目標も目的もない、生きてる意味あるっけ?
それはそれでキツイ。
それでも薬が必要だった時期があった、
希死念慮を散らし、過食嘔吐やDVを止めるには必要だった、その時の私はいっぱいいっぱいだったから。
そして今投薬を止め、
久方ぶりに一つのものに対し何ふり構わず没頭する感覚が蘇った。
それはもう抑えなければならないものじゃない。
懐かしい感覚、自分が思い描いたものは何でも描けると信じて疑わなかった投薬前の、発症する前のあの頃の感覚。
食事もセックスも、投薬中あんなに固執していた寝ることさえも二の次になる。
過集中のような、過集中なのかたぶん。
ドラマの一場面のように、描きたいものが描けないと紙をグチャグチャにして破り倒し鉛筆をバキバキに折るほど、自分ができると信じまくるなんてことがまた起こるなんて。
何十年と生きてきて、
たった一つだけ私が誇れることがあるとすればそれは絵を描き続けたこと。
器用貧乏で、ある程度はなんでも卒なくこなすけど他者欲求に振り回されて長続きしない私が、
大成はしなかったけど、
度々間は空いたけど、
他の誘惑は沢山あったけど、
止めなかった。
描いてても集中出来なくて苦痛で、義務感だけで無理やり描いていた時期もあった。
でも止めなかった。
一つだけ誇れることがあって良かった。
それが自分の好きな事で良かった。
薬で抑圧していたけど忘れないで良かった。
あの没頭する感覚をまた感じられる様になるとは思わなかった。
向精神薬のおかげでもない、
抗不安薬のおかげでもない、
副作用でもない、
私が私において感じたことだ、
私が私においてしていることだ、
それが心地良い。
そして感謝したい、
医学の進歩に、
私を見捨てず適当に付き合ってくれた主治医に、
私の為に医者を探してくれた他人に、
不器用でたびたび奇怪な行動をする私に付き合ってくれた同僚に、
そして、
私が人生に飽きない程度に面白いマンガを書き続けてくれた漫画家たちに。